皆さん、こんにちは!
太陽監査法人 マネジャー 小平 正(こだいらただし)と申します。
はじめに
「タイ駐在、最高!!!」

私は、2011年に太陽監査法人に入所し、2022年2月から2025年6月までGrant Thornton Thailandに赴任していました。3年5か月間の駐在経験は、今までの人生において忘れることのできない素晴らしいものになりました。
現地では、Grant ThorntonTaiyo Thai(GTTT)というJoint Venture(JV)での日系企業向けビジネスに関する事業計画を策定し、個別プロジェクトに参画しながら年間目標売上高を達成するために「いま何をすべきか…」を考えて実行・修正していく日々を過ごしました。
(ここでいうJVとは、Grant Thornton Japan(太陽)とGrant Thornton Thailandの共同出資で設立した合弁会社であり、タイにおける日系企業ビジネスについて、Accounting Firmとして目標年間売上高を達成するために事業計画の立案・報告・修正を行い、営業活動や個別プロジェクトに参画しています)
このように書くと綺麗な表現になりますが、
実際には知り合いが一人もいない状況から始まり、様々な失敗を日々経験しながら人の助けを借りて一歩一歩階段を上っていくような日々でした。
最初は求められるレベルに対して何も出来ない日々が続いていたのですが、振り返ると自分の限界を少しずつ超えていく過程が自分の視野を広げるきっかけになりました。また、最終的には多くの友人、仲間、同僚を得ることができました。
これらの経験は私にとって『かけがえのない財産』となっています。
タイに駐在できて、本当に良かったと実感しています。
2025年7月、出向元の太陽監査法人に帰任しました。現在の主な業務内容は、海外拠点のあるクライアントのグループ監査や海外企業(ベトナム)の東京証券取引所上場に係るIPO支援、及び国際部の業務に従事しています。

今回のブログでは、私の海外駐在経験についてお伝えしたいと思います。
このブログを読んでいただいている皆様に最初にお伝えしたいのは、もし、目の前に海外駐在の機会があるのであれば、是非掴み取りに行ってください。当初自分が想像しなかった経験を得られます!
海外駐在に至るまで
「巡り合わせに感謝」
太陽では、10年以上前もから海外へ駐在員を積極的に派遣していました。
私はもともと小学校に入る前に少し海外にいたことがあり、また、旅行好きでもあったため、海外で仕事をすることについては興味がありました。
1年目から海外駐在を希望していたのですが、監査業務に従事する傍ら、なかなか駐在希望について上手く機会を掴むことができず、自分には海外駐在のチャンスは無いものだと諦めていました。
日々の監査業務に追われながら10年がたった頃、急遽、タイ駐在の話をいただく機会がありました。
元々チャンスは無いものだと思っていたので、
「タイ駐在に行くか?」
という質問に対して、
その場で「はい、行きます」と即答したところ、半年後タイにいました。
赴任当初、コロナ禍で日本人駐在員の不在期間が2年超も続いており、JV対応もあることから、誰かを送らないといけない状況であったということは、後になって聞きました。
偶然の巡り合わせで物事が急に動いたことには、当時とても驚いたことを、今でも覚えています。
約3年半のタイ生活を経て、
当時の自分からすれば、仕事ではこんなにも営業に注力して、週末にはゴルフをするようになるとは、想像すらしていませんでした。
海外駐在(仕事編)
着任早々…
「えらいとこに来てしまったなぁ」
私が着任した2022年2月時点のGTタイ駐在生活は、非常にネガティブな状況から始まりました。
当時、コロナ禍でアドバイザリー需要がなくなった影響、及び日本人駐在員の不在によるクレームの影響で、日系企業向け売上高が年々減少し、過去最高益計上時から売上高が半減している状況でした。そのため、着任早々、GTタイの現地CEOとのミーティングでは「年間売上高を4倍にします」と宣言しました。
しかし、そのような状況下では、全ての関係者から懐疑的な話をされるものです。
着任前、太陽からは「日本人不在であったことなどから、タイは他の駐在国と比較してもうまくいっておらず、あらゆる面でマイナスからのスタートである」と言われていました。
実際、私の前任者は3名いましたが、定年退職済などで太陽には在籍しておらず、あまり引継ぎもない状況であったため、実質的に再スタートという状況でした。
また、GTタイのメンバーからは、
赴任当初「この日本人はどのくらいの期間もつのか(いつ頃、日本へ帰るのか)、本当に売上高を稼げるのか?」という懐疑的な眼で見られていました。
そして、現地クライアントからは「今更タイに来てどうするの?GTに日本人はいなかったから、GTから他へ変えようと思っていたんだよ」といった声をかけられるところからスタートしました。
ここまでくると、笑えてきます。
よく、クライアント訪問の行き帰りの車の中で「えらいとこに来てしまったなぁ、でもやるしかない」と感じていました。
しかし今思えば、
ハードルが低く(あまり期待を受けずに)一人で異国の地で仕事を始められたことが、自由に自分自身の発想と行動でビジネスを切り拓いていくことに繋がり、フロンティア精神を養える良いきっかけだったのだと思います。
この時期を無事に乗り越えられた結果、私のタイでの駐在生活は、とても充実した日々になりました。
1年目が勝負!
「数字がついてこないのはキツい」
駐在期間、最初の1年目が最もキツく、かつ最も重要な時期でした。
当時の私に期待されていた役割は、以下になります。

当時のネガティブな状況を打開し、V字回復させるために何をすべきかを考え、1年目は「GTタイに日本人駐在員がいることをタイの日系企業に認識してもらう」ことに絞りました。
具体的に取った行動は以下になります。
- タイに子会社がある日本の全クライアントへの挨拶周り
- 商工会議所イベントへの全参加(全17部会、ゴルフコンペ含)
- 大手弁護士事務所とのCocktail Event開催や金融機関への挨拶回り
- 税務セミナーの開催、Tax News Letter送付
そして、上記を踏まえた個人のKPIを以下に設定しました。
- 年間クライアント訪問・ミーティング回数365回以上
- 年間提出見積金額50,000,000THB(タイバーツ)
KPIはいずれも達成はできたのですが、その際に意識していたことは「ある程度考えてから、とにかく動き、動いた結果が伴わなければ軌道修正・方向転換する」でした。
結果的に、1年目で集めた名刺の数は500枚を超えました。しかし、数値(売上実績)が伴わない1年目は、いくら説明してもGTタイの現地CEOからは納得が得られない状況が続いたため、この時期が精神的に一番キツかったです。
見切りをつけられていつ日本へ強制送還されてしまうのか…という緊張感と、ここまできたら引くに引けないなという思いで平日を過ごしていたので、メンタルのバランスを保つために、週末はゴルフをするようになりました。
商工会議所のゴルフコンペにも出るようになり、日系企業の現地Managing Director(MD:現地最高責任者)の方々とも社交を交えてゴルフをするようになると、ゴルフをしている時間は平日のあらゆることが忘れられました。
ゴルフは駐在期間にわたって続け、よき仲間や友人を得て、時には仕事を獲得することもありました。

両CEOへの報告から学んだこと(2年目以降)
「目標達成に向かって」
JVの特徴としては、
毎月の活動報告のほか、JV向けに四半期ごとのBoard meetingへも参加していました。
Board meetingでは、
Boardメンバーである太陽の山田総括とGTタイのCEOに対して業績報告・事業計画の説明(見直しも含む)を行いますが、結果(年間目標売上高の達成)を出すために、どのようなターゲットに向かってどのように動いていくべきか、事業計画としてどのようなプランを考えて、どのような行動をしたのかについて、都度報告し、毎回貴重なご意見・アドバイスを(みっちりと)もらいました。
今にして思えば、この経験が通常では考えられないほど貴重なものであり、一従業員がCEOに対して事業計画と活動について直接報告し、そのフィードバックをもらえるという経験は、それまでの自分の価値観をすべてリセットしイチから築き上げていくような作業となりました。
特に、両CEOから同時に同じことを言われたことがあり、とても印象に残っています。
それは、駐在2年目になって、日本からの紹介案件でアドバイザリーサービスが伸びていて安心していた頃のことです。
2年目以降は、当初想定以上に売上高も伸び、3年目(2024年)には、JVの過去最高益を達成(2021年度比で売上高2倍強)し、2期連続配当を実施できるまで業績が伸びていきました。
しかし、1年目は数字がついてくるかどうか全く不透明な状況の中もがき続ける毎日だったため、少しずつ成果が出始めた時期であり、気づかぬうちに少し満足してしまっていたのです。
ある報告会で「日本からの紹介案件もあり、順調に売上が伸びています」と報告した際、「日本からの紹介ではなく、おまえ自身として現地でどのような案件を獲得し、その案件をどのように回していくのかが重要なのであって、ただ仲介すればよいわけではない」という趣旨のことを、両 CEOから同じタイミングで指摘を受けました。
この時、無意識に守りの気持ちになっていたことに気づき、まだまだ、自分が発展途上であることを再認識することができました。
当初立てた目標に向かってできない理由を並べるのではなく、なんとか努力して形にしていくためには何をすべきかを日々自問自答できたことで、仕事に関する考え方も大きく変わる大変貴重な経験となりました。
そして、帰任直前まで売上高が目に見えて伸びていくにつれ、自分自身の足りない部分をより明確に自覚するようになっていったのは不思議な経験でした。
4年目に入り、ビジネスが順調に伸びていくことで、両CEOからは一定の評価を得られたことは幸運だったのですが、自分が達成できなかったこととして、当初に掲げた最終的なJVの目標である年間売上高は達成できずに帰国してしまったことがあり、この部分について心残りがあります。
幸い、後任者が増員となる見込みのため、目標達成については、バトンを託したいと考えています。
海外駐在(生活編)
常夏タイ ―暑くて、料理は辛い!―
「暑っ!」
2022年1月20日タイ、バンコク到着。
当時はコロナ禍であったため、行きの飛行機では乗客が10名もおらずまるでファーストクラスかのようにCAの方々が声をかけてくれたのが印象的でしたが、案の定、あまり寝られませんでした。
タイ、スワンナプーム国際空港に到着して、様々な手続を経てから、隔離期間(1日)を過ごすためのホテルに直行。空港からバンコクまでは通常、30-40分程度なのですが、ほとんど渋滞もなく指定ホテルに到着してチェックイン、早々に就寝。
「ここで、生活していくのか…」
翌朝、ホテルのカーテンを開けて外にでたときに、もあっとした暑い空気が一気に身体を覆い、南国独特の匂いの中でオニカッコウの鳴き声が響いていた景色が今でも忘れられません。
タイではフルーツが安くて美味しいので、マンゴーばかり食べていました。
ですが、GTタイでの同僚とのランチで食べたソムタム(パパイヤサラダ)の辛さには衝撃を受けました。水を飲んでも舌が痛いレベルであり…、その後は何も食べられなくなりました。

最初からタイ料理の辛さに度肝を抜かれて、結局、最後まで辛さ控えめで食べていました。
その後、三食カオマンガイ(チキンライス)を食べていたら、1か月で4キロ増量してしまい、最終的には日本食とたまにイタリアンに落ち着きました。
タイの気温は、暑いか、とても暑いかの2択です。特に、4月が最も暑い時期になります。
4月半ばにあるソンクランというタイ正月には、水かけ祭りが行われます。気温が約37度に達する猛暑の中でバンコクのカオサンロードに行った時には、そこら中で水鉄砲にて水を掛け合っていました。水着とTシャツで練り歩くのですが、終わる頃にはプールに入った直後のような状況でした。
雨季は5月後半から9月頃まで続き、夕方にスコールのような雨が降ります。
通常、駐在員の場合、運転手付き社用車が付与されるのですが、私にはありませんでした。
雨季の雨は尋常ではなく、バンコクのスクンビット(日本人が多く住むエリア)周辺は元々沼地であったため、すぐに道が水没します。雨が降ると、感染症防止等のために帰宅できずに駅ビル等で待ちぼうけになります。そのため、私は駅近のアパートメントに住んでいました。
そして、着任から1年以内は帰宅すると倒れるように寝ていました。
言葉・ゴルフとの出会い・・・
「プータイメダイ」
(わたしはタイ語を話せません)
英語での生活
私が居た環境は従業員250名~300名の中で日本人は1名のみの状況であったため、中に入って仲間に入れてもらうためには英語が必須の状況でした(海外の方々は当たり前に2か国語、3か国語を高いレベルで話します)。日中、ずっと英語で仕事する日々は想像以上に頭のスタミナを削っていきます。
職場と自宅の往復の毎日を経て、最終的には英語での会議でも英語で話を進められるようにはなりました。完璧は求めませんが、英語での質疑応答を行い、自分の言ったことは理解してもらえて、結果報告やマネジメントインタビュー、クライアントとの見積り交渉、マネジメント研修、CEO向け業績報告等での発言について、問題なく進められるレベルにまでは到達できました。
1年、2年、3年と経過していく度に自分の能力が上がっている実感がわくようになっていき、仕事で成果も出てきていたので、相乗効果で良い循環に入っていたと思います。
タイ語の壁
2年目の後半からタイ語教室に通いました。
タイ語は音の種類が5音あります(中国語(普通語)は4音)。音が変わると真逆の意味になる言葉もあるので注意が必要です。また、男性と女性で発音も変わります。
私が最初の覚えたタイ語は「Pu Thai mai dai.」(私はタイ語を話せません)でした。
最終的には、ゴルフ関連を中心に数字、方向等のタイ語を覚えましたが、タイ人の同僚と飲みに行ってもタイ語でのコミュニケーションができなかったため、もっと勉強すればよかったと後悔しています。
ゴルフに目覚める!
実は着任の半年前、私は前十字靭帯再建手術を受けました。過去にスキーで痛めていた古傷です。
もともと学生のころから剣道やスキーを中心に様々なスポーツをやっていたのですが、タイに来るとスキーはできません。そして、手術明けの体でできるスポーツも限られてきます。
最初は、ヨット、ムエタイ、カイトサーフィンなどに挑戦したのですが、ゴルフがあまりに下手すぎたので、結果的にゴルフに専念することになりました。
あるコンペに参加したときの私の最初のスコアは、確か140台でした。いろいろとオマケしてもらっての結果です。始めたばかりの女性にも負けてビリでした。
スポーツ全般、そんなに苦手ではなかった私にとっては、この結果が衝撃的だったため、そこでスイッチが入りました。遠い昔に忘れていた学生時代の負けん気が、沸々と甦ってきたのです。

また、売上拡大のために営業活動をする必要があったのですが、夜の飲み会がそんなに得意ではなかったので、週末の昼間にゴルフを練習することにしました。結果、ゴルフ仲間を持つことが出来て、様々なMDの方々とゴルフをご一緒する機会に恵まれて、仕事をいただくこともありました。
余談ですが、バンコク周辺のゴルフ場は、高低差がなく平たいコースが多いです。そのため、バンカーと池がこれでもかというくらいあります。ロストボールを拾う通称カッパと呼ばれるタイ人が池に入ったボールを拾って転売しており、「ボールが足りない!」といった状況になることがあります(笑)。
友人、仲間、同僚に恵まれて
「21夜連続送別会&週末土日送別ゴルフ」
帰任直前2025年6月は、昭和の大学生のような毎日を過ごしていました。
有難いことに様々な知り合い・友人・同僚・先輩・後輩から送別会やゴルフのお誘いをいただき、私は普段そんなに多弁ではないのですが、これほどの密度のコミュニケーションは今までの人生の中でも中々無いレベルでした。

また、駐在期間中は会社で日本人が私1人で、自分から会いに行かないと日本人と話す機会がなく、大学のOB会や商工会議所のイベントにも積極的に参加し、毎月、飲み会の幹事をやっていました。20代から70代まで幅広い年齢層の方々とご一緒する機会は、とても貴重でした。

(左がIan CEO、中央が私のアシスタントのNadia)
そして、GTタイではHappy Fridayという定期イベントが事務所近くのレストランで行われます。その場で様々な部署のスタッフからパートナーまで知り合える機会があり、普段、仕事・プロジェクトでは見えない同僚の表情を知ることが出来ました。
タイ人は、優しくて面倒見が良い大らかな人が多いです。最初は様子見だった同僚たちとの距離感もグっと縮まりました。

さらに、毎年9月はOutingという宿泊研修があります。そこではバンドの生演奏があり、日付が変わっても飲んで踊っての宴会が続きます。今の日本では考えられませんが、会社の同僚達と宿泊研修で一緒の時間を過ごすというのはとても良い経験になりました。

障害者向け小学校にて
さいごに
私にとって、タイ・バンコクは第二の故郷と呼べるほどの思い出の地になりました。
タイはASEANの中央に位置し、古くから日系企業が進出しているため、親日国でもあります。様々なビジネスマンと会い、経済の動向、各社の取り組みについて直接話を聞ける環境は、私にとって外から日本を眺める絶好の機会になりました。
日本に戻った現在、私は会計士として監査に再び取り組む環境に身を置いています。
監査での10年間があったからこそ、駐在生活を乗り越えられました。そして、タイで様々なサービスラインから得られた経験を生かして、海外経験があり営業もできる専門家として、今後の日本での業務に役立てて行きたいと考えています。
長くなりましたが、
さいごまでお読みいただき、ありがとうございました!